マン島と言ってまず頭に浮かぶのは、マンクス・キッパース(世界最高の燻製ニシン)とTTレースの2つです。
TTレースは1907年に始まったバイクのタイムトライアルレースで、6月に公道を封鎖して行われます。コースは全長60.7キロで、ダグラスから始まり、くねくねと曲がりながらラムジーまで西へ北へと続き、スネーフェル山を越えて再びダグラスへと戻ります。参加者はペアでレースを開始し、周回レースを最も速いタイムで走り終えたライダーが勝者となります。 マン島TTレースは今でも国際イベントですが、1976年にワールドグランプリシリーズからは外れています。このレースは非常に有名で、人間とマシンを試す究極のテストと考えられています。本田宗一郎氏はこのレースの過酷さに惹かれ、レースを視察するために1954年に島を訪れました。このヨーロッパ訪問によって彼の世界に対する考え方が変わりました。 後に、年老いた本田氏は次のように振り返っています: 「1954年にマン島TTレースを初めて見に行った時のことです。私達が考えていたよりも3倍のパワーでマシンが走っているのを見てとても驚きました。イタリア、ドイツ、イギリスから人々がマン島に集まっていました。そして、私はまるで矢のごとくバイクが走り抜けるのを見ました。これらのマシンがそれまでに私達が見たことがあるものと全く違うだけでなく、私達はそのような光景を想像すらしたことがありませんでした。レースを見に行った時、私は最初、非常に落胆しショックを受けました。マン島に行く前、私はホンダがどのようにTTレースに参戦するかについて日本中で語っていたので、それは相当なショックでした。私は、何ということを言ってしまったのか、これからどうしようかと考えました。そして気を取り直してもう一度レースを見ました。一晩ぐっすり眠り、翌朝もう一度レースコースを見に戻りました。その時ふとひらめいたのです。この人達はレースの長い経験があるから、このようなマシンを造ることができるのです。われわれにはその経験はありませんが、ずっとバイクを扱ってきました。そのことが彼らの経験と同じ効果を発揮するかもしれません」(二玄社『HONDA F1 1964-1968』より抜粋) 本田氏は、バイクレースでの成功によって、世界が小さな日本の会社を知るようになる可能性があり、それがホンダの製品を輸出するための重要な原動力であると考えました。よって、彼は必ずレースで成功すると決意しました。成功すれば、ホンダは世界で有名になれるでしょう。 1959年、ホンダは初めて125ccのマシンと日本人のライダーでTTレースに参戦しました。チームはサーキット脇に建ち並ぶ石壁と他のマシンのスピードに衝撃を受けました。舗装された道路でレースをするのは初めてでした。それでもチームは全力を尽くし、チームの4人のライダーはそれぞれ6位、7位、8位、10位で完走し(完走するだけでもすごいことです)、チーム賞を獲得しました。 突如として世界はホンダの名前を聞きました!ホンダはレーシングマシンの開発を進め、1961年にはマイク・ヘイルウッドが125ccと250ccのレースで優勝しました。日本の他の会社、スズキとヤマハもまもなく後に続き、“島”(バイカー達の呼び方)に行きました。カワサキもTTレースに参戦するようになりました。1960年代の初めから1976年のグランプリシリーズの一戦としての最後のレースまで、日本のマシンがほぼすべてのレースで優勝しました。他は、唯一イタリアのMVアグスタが350ccと500ccのクラスで勝利するだけでした。 それは素晴らしい時代でした。もちろん、今でも日本のマシンはTTレースと、その姉妹イベントでアマチュアの個人ライダーのレースである、9月に開催されるマンクス・グランプリの中心的存在となっています。可能なら、レースを見に行ってみる価値は十分にあります。 ホンダが世界中で“誰もが知る名前”となった時のこのYouTubeの動画を見てください。 https://www.youtube.com/watch?v=woB5Ht-Zuk0 コメントの受け付けは終了しました。
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7月 2022
筆者Jeff |