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Aspects of language and culture, by Jeff
~言葉と文化のとらえ方~

第109回 ネルソン提督

9/16/2016

 
イギリス軍の英雄と言えば、多くの人が歴史上でおそらく最も偉大な海軍の兵士であるホレイショ・ネルソンを思い浮かべるでしょう。彼は数々の有名な戦いに勝利し、戦闘で片目と片腕を失いました。ネルソンの有名な言葉(誤って引用されたものですが)の一つに、コペンハーゲンの海戦で撤退を命じられ、見えない方の目に望遠鏡をあてて言った「船は見えません」があります。この言葉から、見て見ぬふりをするという意味の “turning a blind eye”という諺が生まれました。
ロンドンを訪れたことがある人または写真を見たことがある人は、トラファルガー広場の真ん中にあり、てっぺんにネルソンの像が立っている、高さ169フィート3インチ(51.6メートル)の柱、“ネルソン記念柱”を見たことがあると思います。イギリスやイギリスの元植民地には、カナダのモントリオールにある記念柱をはじめ、他にもたくさんのネルソンの記念碑があります。
ネルソンは1758年にイギリスのノーフォークで11人中6番目の子供として産まれました。12歳までグラマースクールに通い、1771年1月1日に叔父モーリス・サックリング大佐の船に三等水兵として乗船し、まもなく見習士官に昇進しました。当時、これは海軍の艦艇に乗るための通常の道のりでした。船の扱い方と船上での生活をあらゆることをじかに体験できるよう少年たちは幼いころから船に乗りました。そして18歳までには、人生を海で過ごした百戦錬磨のタフな水兵を統制できるようになるのでした。
1773年、大西洋を2回渡った後、ネルソンは北極探検の噂を聞き、叔父に相談しました。そして指揮官ラトウィッジの舵手としてカーカス号に乗船しました。遠征では太平洋への“北西航路”は発見できませんでしたが、氷で身動きが取れずにいる間、ネルソンと友人は白くまを見つけ、船から飛び出しそれを追いかけました。
1777年、様々な船に乗った後、ネルソンは海尉昇進試験に合格しました。そしてジャマイカに向かっていたローストフト号のウィリアム・ロッカー大佐の下で任務につくよう命じられました。アメリカの独立戦争の間、ローストフト号は複数の“戦利品”(拿捕船)を獲得しました。その中にあったのが“テンダー”と“リトル・ルーシー”で、ネルソンはそれら2船の指揮権を要求し自分の船としました。その後まもなくフランスが参戦すると、ネルソンは“ブリッグ”(高速で操縦しやすい2本マストの帆船)バッジャー号の指揮官に昇進しました。戦いのあいだ、ネルソンは他の複数の船を指揮し、マラリアにかかりながらも、勅任艦長に昇進しました。
1783年に戦争が終わると、ネルソンは結婚し、乗艦のない半給の艦長としてイギリスに戻り、次の乗艦を待ちながら努力を続けました。
1792年にフランス革命戦争が勃発し、ネルソンは64門艦アガメムノンの指揮を命じられ、地中海に向かいました。コルシカ島での戦闘で、ネルソンは大砲を陸へ降ろし、カルヴィへ砲撃を開始しました。ある日の早朝、銃弾が土嚢に当たり破片がネルソンの右目に命中。傷を手当てしましたが、右目の視力は次第に失われ、ついには完全に見えなくなってしまいました。
地中海での戦いは続き、サン・ビセンテの戦いなどネルソンは多くの勝利を収めました。帰国後、ネルソンは“バス伯爵士”(勲爵士団)を授与され、“青色艦隊の少将”に昇進しました。(当時、海軍の大佐以上の階級は年功序列制でした。将官は青、白、赤の順に、そして少将、中将、大将の順にランク分けされていました。例えば、赤色艦隊の少将は次に青色艦隊の中将に昇進します。)
ネルソンの次の大きな戦いはサンタ・クルス・デ・テネリフェの戦い(1797年)でした。上陸作戦でネルソンは右腕を撃たれ、骨が砕けました。船に運び戻されると、ネルソンは軍医に「切断は早ければ早いほどよい」と言い、それを聞いて軍医は腕の大部分を切断しました。その30分後には、ネルソンは再び部下の艦長らに命令を送っていました。イギリスに帰国したネルソンは英雄として大歓迎を受けました。
しばらくケガの療養をしたのち、ネルソンはすぐに新たな任務を命じられました。1798年、フランスの活動を偵察するために再び地中海に向かいました。一方、フランスはナポレオンの指揮の下、大規模な侵攻艦隊を編成しエジプトに向かっていました。ネルソンはアレクサンドリアでついに艦隊を発見し、壊滅的な打撃を与えました。これによりナポレオンは孤立し、エジプトに取り残されることになりました。このナイルの海戦での勝利はイギリスのみでなく世界中で称賛され、ネルソンはロシアのツァーリから贈り物を与えられ、オスマン帝国のスルタンからもその栄誉を称えられました。
戦いの後、ネルソンはナポリに向かい、そこで駐ナポリのイギリス大使であるウィリアム・ハミルトン卿の妻(そして後にネルソンの娘ホレイシャを出産する)エマ・ハミルトン夫人と恋に落ちました。その後3人は堂々とロンドンで一緒に暮らしました。
ロンドンでネルソンは男爵の称号を与えられました。
やがてネルソンはイギリスに戻り、青色艦隊の中将に昇進しました。次にネルソンが派遣されたのはバルト海でした。バルト海では、ロシア、プロイセン、デンマーク、スウェーデンの政府がイギリスのフランスに対する貿易封鎖に抵抗していました。ネルソンはコペンハーゲンの海戦(1801年)でデンマーク艦隊を撃破し、前述の有名な言葉を残し、武装中立同盟を解消させました。そして、帰国後、子爵の称号を得ました。

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    イギリス、ランカシャー出身。1992年からYTBのエディターとして活躍。その他にも大阪大学、関西大学、大阪外語大学で教壇に立っている。大阪在住。

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